昨日は、前の日に1時過ぎまで飲んでたけど無事朝7時におきてジョギング。
清清しいけど、まだお酒が抜けきらない・・・。
午後から4時間超のロングミーティングだったので眠くならないか心配だったけどなんとかセーフ。
夜はmimakiさんがセッティングしてくれたsoftmachine35ことT田さんと飲み。Inoueさんも交えた4人で、加賀料理のお店で飲む。
T田さんはウワサにたがわぬ面白い方で、話の展開もスピーディーだし、アカデミックな分野からテクノロジー、ビジネス、人間観察と、引き出しが兎に角多い。
飲みの冒頭では、氏のバックグラウンドを掴むのと、昨日の酒が残っていこともあって黙って聞いていたんだけど、貴重な場だった。
T田さんがブログにもお書きになっているが、人のもつ「リズム」の話で少し盛り上がった。(いや、いろんな話で盛り上がったのだが)
興味深いテーマだ。
そういえば「1年48日説」という考え方があって、学生までの頃は日々の生活リズムに変化が多いので、1年は感覚的にも365日で構成されているんだけど、社会人になると生活のリズムが固定化され、そのリズムに変化が訪れるのは週末だけになるので、1週間単位で物事を考えるようになる。
だから、感覚的には「1週間が昔の1日感覚になる」ということで1年48日説。
「リズムをこよなく愛するのが人間の根本的な性質なのだろうけど、非同期コミュニケーションは基本的に「割り込む」という性格を持っているので既存のリズムを持っているメディアの上に、アドオンすることが容易である。逆に非同期メディアへの依存率が高まると、相当なメディアリテラシーを持っていない限り、生活からリズムが失われていく。積極的なタイムシフトが楽しいと思える人は実はそう多くはないのではないだろうか。」と指摘している。
答えはわからないけど、割り込みという性格を持つコミュニケーション形式と、個人が持つリズムのバランスの支点が、今よりももう少しずれたところでバランスが保たれることはあるんじゃないかな、と直感的には思う。
ある意味、歴史的には江戸時代以前ははるかに皆リズミカルに生活をしていたはずで、日が昇ってから沈むまで、という限られた時間の中で(基本的には)生産に従事する。
それに比べて、現代は割り込みだらけなわけであって、ヘタするとスワップしてることすらしばしばで、でもその不確かな曖昧模糊とした「ゆらぎ」さえもマクロ的には生活の中に組み込んでいる。
上手な例が見つからないけど、メッセンジャーを複数人で仕事をしながら使っていると、ちょっと近い感覚になる。
お互いが端末の前にいれば、同期したコミュニケーションになるんだけれど、席をはずしたり、相手が離席中だったり、そうなると単なる付箋になるし、レスもない。2人は同期しているんだけど1人は打ち合わせではずしてる、とか、非同期の中にそれこそリズムなど全く無い。
もちろん、目の前で別の仕事に集中しているときは割り込みは鬱陶しい以外の何者でもないし、メッセンジャー上で非同期で会話ログを残しているときに突然どっかのサイトのURLを別の人にはられたりするとガクッ、としたりもする。
でも、それも含めてそのゆらぎを許容してる自分がいたりして、それはリテラシーという別の問題もあるものの、ビヘイビアとしても成立するのかしら、とも感じる。非同期のゆらぎを許容できるバランスポイント、と言うか。
飲みながらそんなことを高回転で思考しはじめると本当に楽しい。それも複数人でそういう状態になると妙にみんなハイになってきたりして。
いや、本当に楽しいひと時でした。
それよか、なんか動かないとね、と強く実感した数時間。
2軒目で階上のバーで飲み、そこでT田さんと別れて、残った3人で徒然茶寮に。2日連チャン。
1時半くらいまで飲んで帰宅。
うーん、楽しかった。
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